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さて、会のほうはなごやかに進み、数々の祝電も紹介されました。そんななか横綱、白鳳関の祝電が紹介されると、場内は大きな拍手に包まれました。また、先生の幼少時代から医者になるまでの写真もスライドで紹介され、ほほえましい一時でした。タレントせんだみつおさんのトークや歌手、北原ミレイさんの歌声も会に華やかさを添えてくれました。
そして最後は丹羽先生の謝辞のスピーチ。
満場の来賓が今か今かとステージ上を見つめていると、そこに登場した丹羽先生の姿に会場は大爆笑。なんと、そこには江戸時代の殿中裃姿の先生がいらっしゃったのです。水色の直垂に黒の鳥帽子をのせたスタイル。イメージとしては赤穂浪士の映画に良く出てくる浅野内匠頭といったところ。確か、会の始まりは燕尾服だったはず。しゃれの効いた丹羽先生らしいジョークでした。
「今日はみなさんお休みのところ全国津々浦々から私の喜寿のお祝いに駆けつけてくださって心からお礼申し上げます。77歳、医者になって52年。いろいろやってまいりましたけど、とくに子供が亡くなって27年。抗がん剤を使わない丹羽療法を始めまして、いろいろなバッシングも受けましたが、ここまでなんとかやってこれましたのは、ひとえにここにお集まりのみなさんのささえがあったおかげです。 |
決して私一人でここまで来たわけではございません。この場を借りてお礼を申し上げます。
この歳になって私がなんで野球を始めたかといいますと、10年くらい前から同級生がバタバタと倒れていきまして、私自身も心筋梗塞になりまして、このままでは私もダメだと。で、老化、がん化を防ぐにはとにかく適度に身体を動かして汗を流して頭を使うことであると。それでアルツハイマーにならないためには、動体反応だと。それにはゴルフのように動かない球を打つのではなく、100キロ以上のスピードの球を打つ野球だと。それでやり始めたんです。先日は僕のいちばん親しかった高校時代の友人が亡くなり、京大の先輩の教授も先日連絡したらがんで入院されていると聞き、周囲がどんどん寂しくなってまいります。ま、よく考えてみると77歳になってこだけ元気にしているほうがめずらしいわけです。私はとにかく、人のやらないことをやるのが好きで、あと10年、20年、30年、元気で診察、研究、野球をやりたいと思います。
今年は本当にいい年で、私が二十何年やってきて、末期がん患者さんがたくさん元気になられたのに、エビデンスがないから信用できないといわれ悔しい思いを何度もしました。今回、世界的に認められている一流の国際医学雑誌に私の丹羽療法が載ることになりました。この5年間、1500人に及ぶがん患者さんのデータをもとにした療法が年末に載ることになりました。代替医療、漢方的な医療では世界で初めて私の論文が載ることになしました(会場から大きな拍手が)。それと私の息子の闘病を書いた本『白血病の息子が教えてくれたこと』が文庫になります。この本を読まれた出版社の社長さんが、涙なしには読めないくらい感動したとおっしゃって、文庫本として再出版されることになりました。
あと、僕の野球チームがとうとう全国大会に出ることになりました。いま、ベスト8に残り、東京ドームで決勝戦があります。私の草野球チームもいよいよここまできました。私は野球でもなんでも、人に負けるのが大嫌いですから、活性酸素の研究でも、SODでも、とにかく日本一になってやるんだと。野球まで日本一になれるところまできました。
今日はみなさんありがとうございました。次は、11年先に米寿の会をやりますので、みなさんも11年先にお元気でここに出席していただけるようお願いします。丹羽療法を守って、SODを飲んで、11年後再びここでお会いできることを楽しみにしておりますのでよろしくお願いします。」
笑顔を満場の拍手のなか、最後は丹羽先生の歌まで飛び出しました。歌うのは赤穂浪士の歌「俵屋玄蕃」。なるほど、これがあってのこの衣装ということが判明。さらにアンコールで「奥飛騨慕情」まで歌われ、会場も大喜び。先生もこんなにリラックスして楽しそうにされるのだということを初めて知りました。
帰りには会場の出口で一人ひとりの来賓の方とお話をされ、写真を撮り、抽選でおみやげまであった喜寿の会。先生の功績、お人柄が会場の隅々にまで行き渡るかのような温かいバースデーパーティでした。 |
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