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 悪性リンパ腫ステージW!
 余命宣告から4年、今日も元気です!

  福岡県 遠藤洋子さん (69歳) 女性
 
   SODとの出会いはアトピー性皮膚炎
 
   「子供の頃から元気で、大病などはしたことがなかったんですよ」と、はつらつとしたお声で話してくださったのは今回の愛飲者、遠藤洋子さん。結婚して3人のお嬢さんにも恵まれ、平穏無事、幸せな人生を送ってきました。「しいてあげると、長女を出産してから体調が変わったようで、ひじやひざにアトピー性皮膚炎が出るようになったくらいでした」
   長女のご出産時が1978年といいますから、かれこれ40年ほど前になります。まだ世の中がアトピー性皮膚炎という病気を今ほど認知していなかった時代でした。「以来、毎年、夏になるとあせもみたいに出るようになって、秋になると治まっていたので放っておいたんです。それよりも立て続けに娘を産んで、3人の子育てに忙しくてそれどころじゃなかったんでしょうね」
   ただ、このアトピー性皮膚炎については、丹羽先生が講演や著書でおっしゃってきたことが頭をよぎりました。それは、1970年代に入ってから重いアトピー性皮膚炎の患者さんが増えたということです。丹羽先生いわく「昔は成人アトピー性皮膚炎はほとんどいなかった。たいていは幼児期から始まり、小学校に上がることには治っていた。しかし、環境汚染がひどくなった1970年前後から成人のアトピー性皮膚炎が急激に増加し始めたんです。原因は環境汚染。高度経済成長の象徴である自動車が増え、排気ガスを出す。工場の煙突からも窒素化合物が排出される。農場やゴルフ場に撒かれる農薬、除草剤。酸化した脂肪を含むスナック菓子やジャンクフードの蔓延。結果、体内に活性酸素や過酸化脂質が増え、アトピー性皮膚炎の患者さんが激増するようになったんです。とくに工場の多い工業地帯に多かった」
   洋子さんが最初に出産されたのが1978年になります。そして生まれ育ったのが、4大工業地帯といわれた北九州工業地帯に含まれる福岡ですから、このときのアトピー性皮膚炎発症は決して体質が変っただけではなかったのかもしれません。「そういえば、当時、周りにもアトピー性皮膚炎の人が増えていました。子供も大人も。なかには全身にアトピー性皮膚炎が広がり、頭の中まで真っ赤になっていて、かわいそうな人もいました。私も、夏になるとひじのあたりが真っ赤になっていたので、いつかこれがひとくなっていったら困るなとは思っていたんです」
 
   子供たちが学校に行くようになり、育児も一息ついたころ、ようやく洋子さんはアトピー性皮膚炎をなんとかしようと決心しました。「病院ではなく、近所に評判のいい薬局があったので、まずは薬局で塗り薬でも処方してもらおうと思って行ったんです。そうしたらそこの人が私の腕のアトピー性皮膚炎を見て、すごくいい先生がいるからその先生の診療を受けてみないかと勧めてくれたんです。同時に、丹羽先生のSODを飲んでみないかといわれ、10包くらいゆずってくださったんですよ。それを1日に1包、10日間飲んでみたら、1週間目くらいからかゆみがなくなり、ゆっくりと赤みがひいていくのが分かったんです。身体に悪いものも入っていないし、これはいいものだと思いましたね」
   すぐに薬局に行き、SODを一箱購入したのでした。一日1包の服用でしたが、その夏はアトピー性皮膚炎に悩まされることはなかったそうです。「これはいいものに出会ったと思いました」
   以来、夏が近づくとSODを一箱購入し、飲むという習慣がしばらく続いたそうです。そのうち夏になってもアトピー性皮膚炎が出なくなり、飲むとことを何年か忘れていたといいます。「ところが、今度は、次女が大人になってからアトピー性皮膚炎になったんです。ホテルの接客という仕事をしていたので困っていたんです。病院に行ってもステロイドの塗り薬もらうだけで治らないって」
   遠藤家は、一番上の娘さんが調剤薬局にお勤めということもあり、薬のことには詳しく、ステロイドは使い続けると体に良くないとアドバイスをしてくれたそうです。そして、お母様に、「お母さんが前に使っていたSODがいいんじゃないと言ってくれて、すぐに次女に飲ませたら、たったの5日でかゆみや赤みがひいたんです。若いから早かったんでしょうかね。娘もびっくりして、会社の仲間や友達に勧めていましたよ」
 
   白血病を克服した記事を知り、丹羽療法を!
 
   それは4年前にさかのぼります。お嬢さんたちもそれぞれが結婚し、夫婦ふたりだけの日々を送っていた洋子さんに突然病魔が襲いかかりました。「最初、首のあたりにしこりのようなものができたのが最初でした」
   小さなしこりで痛みもなかったことから、歳をとればコブのひとつくらいできるかもと放っておいたそうです。「それが少しずつ大きくなって、そのうちにお腹が張ってきたんです。胃の上から何かに押さえられているみたいに」
   さすがにこれはおかしいと、すぐに病院に行ったところ、リンパ腫の疑いがあるから大きな病院で検査を勧められました。「そしたら悪性リンパ腫(※注1参照)で、血液のがんみたいなものだといわれたんです。おまけに横隔膜に腫瘍があって、それが胃を圧迫しているとかで、なんだかよくわからなかったのですが、大変なことになっていたみたいです。私も、身体がだるいし、熱はあるし、そのまま入院でした」
   このとき、洋子さんは、悪性リンパ腫のステージWという診断を下されていました。医師からは、手術は無理で、余命3か月といわれていたそうです。詳しいことを聞いていたのは、薬局に勤めていた長女でした。手術は無理。できる治療法は、抗がん剤と放射線、造血幹細胞移植だといわれたそうです。「抗がん剤と放射線と血液の輸血(造血幹細胞移植のこと)、どれもイヤでした。でも、入院中に放射線と抗がん剤治療は数回して、ちょっと回復したところで退院したんです。病院なんかイヤでしたから」
   どうしてイヤだったかというと、洋子さんはSODを飲んでいた時から、丹羽先生の資料を読んでいたんのです。「丹羽先生の話なんかを読むと、抗がん剤は毒で、百害あって一利なしと言っているじゃないですか。抗がん剤を使うと、がんが小さくなるまえに人間が死んでしまうと」
   そして、白血病で余命宣告を受けた人が丹羽先生の治療で助かったという記事を見つけたのでした。時期からしてその記事はおさおらく、picap059に掲載された、テニスプレイヤーの辻田さんの記事ではないかと思います。辻田さんの場合は急性白血病で、病巣にリンパと白血球の違いがありました。しかし、どりらも血液のがんであることには変わりません。「その記事を読んで、その方が白血病で死にそうだったのに1か月で元気になられたと知り、これはもう丹羽先生のところしかないと思いました。娘もSODを勧めてくれて、退院と同時に一日に10包くらい飲みましたよ。そしたら、数日で身体がものすごくラクになったんです。ああ、もうコレしかないと確信しました」
   そうして福岡の丹羽先生の診療所を訪ねたのが3年前のことでした。「先生に治るんですか?って聞いたら、治る人もいるが、あんたの場合は完全には治らん。しかし、余命何か月なんてことはないから安心しなさいって言われまして、嬉しかったですね」
   先生から処方された生薬とSODを飲み始めた洋子さん。10キロ余り体重が落ちてすっかり体力をなくしていましたが、「どんどんラクになっていきました。病気の時は、あっ、今も病気ですが、なんか治っている気がして帰ってくると寝込むくらいぐったりしていたのですが、SODを飲むと、すぐに体力が回復するんです」
   病気が発覚してから4年。定期的な検査に行くと、先生も驚くとか。「とにかく悪くなっていないんですから驚きますよね。この世には神様がいるんですよ。ありがたいことです。なんかあれば丹羽先生がいらっしゃる、SODがあるということが心強いです」
   おそらくお嬢さんにお話しをうかがえば、もう少し病院とのやりとりや細かい症状などが分かったのかもしれませんが、いまここに、洋子さんがお元気でインタビューに答えてくださっていることが何よりも真実だと思います。ありがとうございました。
 
※注1   悪性リンパ腫とは
   悪性リンパ腫は、血液細胞に由来するがんの1つで、白血球の一種であるリンパ球ががん化した病気です。全身のいずれの場所にも病変が発生する可能性があり、多くの場合は頸部、腋窩、鼠径などのリンパ節の腫れが起こりますが、消化管、眼窩(眼球が入っている骨のくぼみ)、肺、脳などリンパ節以外の臓器にも発生することがあります。
   首や腋の下、足の付け根などリンパ節の多いところに、通常は痛みのないしこりとしてあらわれます。数週から数ヵ月かけ持続的に増大して縮小せずに病状が進むと、このしこりや腫れは全身に広がり、進行するに従って全身的な症状がみられるようになります。全身的な症状としては発熱、体重の減少、大量の寝汗を伴うことがあります。悪性リンパ腫と診断される人は60歳ごろから増加して、70歳代でピークを迎えます。
   治療方針は、適切な病理診断と病期分類に基づき、全身状態を考慮して決定されます。主な治療法は化学療法と放射線治療です。治療効果が十分でない場合は、さらに強い化学療法や造血幹細胞移植などが行われます。
(国立がん研究センターがん情報サービスHPより)

 


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