ご無沙汰しております。というのが今回インタビューさせていただいた辻田さんとの久しぶりのあいさつでした。愛用者の“声”User's
Reportをずっとご覧いただいている方のなかにはご記憶かもしれませんが、辻田さん、この愛用者のコーナーには二度目の登場となります。一度目は、10年ほど前(Picap
007)のことです。
テニスで年代別全日本チャンピオンという華々しい経歴を持ち、会社経営の傍ら40歳になって鍼灸治療師の資格を取り、治療師としも活躍されていた辻田さん。50代のときホノルルマラソンに出場し、4時間10分で完走した経歴もあります。そんなスーパーマンのような辻田さんが動けないほどの大病に見舞われたのは61歳のときでした。テニスの全国大会が迫っていたため、日夜猛練習をしていたある日、突然、肩に痛みが走ったのです。筋を痛めたと思っていたら、肩に次いで肘膝にまで痛みが広がり、これはただ事ではないと大学病院で診てもらったのです。診断は膠原病でした。
膠原病というのは、全身性エリテマトーデス(SLE)、全身性硬化症(PSS)、皮膚筋炎(DM)、関節リウマチといった病気などの総称で100種類以上にのぼります。上記の病名でも分かるように、関節、血管、内臓などにある結合組織に異常をきたす自己免疫疾患の一種と言われています。いまだ完全な治療法がないそうです。
このとき辻田さんに処方された薬も、炎症止めと痛み止め、薬で胃が荒れないようにする胃薬の3種類。どれも根本的に病を治すものではありませんでした。「西洋医学では治療法がないのだから仕方ない」とは思うものの、筋肉がみるみる落ち、歩くのも困難になると精神的なダメージも大きかったと言います。普通ならそのままあきらめてステロイド系の薬を常用していくところなのですが、辻田さんは違いました。テニスで培った負けず嫌いの性格、あきらめない精神で、丹羽先生の治療を探し当てたのです。「ほとんどあきらめかけていた時に巡り合った丹羽先生に、僕の言うとおりにすれば必ず治るから、胃薬も炎症止めもいらない。痛み止めだけ我慢できない時に飲みなさい、と言われてものすごく気持ちがラクになりました」そうして先生に処方された特製漢方薬とSODを1日9包飲み始め、なんと1年後にはテニスが出来るくらいに復活し、翌年の全日本大会シニア部門で見事優勝を飾ったのでした。
ある日突然、立ちくらみ血液のがんかもしれない
あれから8年。辻田さんはすっかり元気になり、テニス三昧の日常が戻っていました。そんなある日のことでした。「いつものようにテニスの練習をしていたら、急にバランスがとれなくなり、ふらついた。いわゆる立ちくらみですね。初めは、単なる貧血かなと思いました。甘いものと水分を補給すればこんなのすぐに戻ると思って気にも留めていなかったのです。その後も、めまいや立ちくらみがしばしばありましたが、ちょっと疲れているのだろうな、くらいに思っていました。そうしたら今度は、動悸や息切れに見舞われ、テニスコートでしゃがみ込むようになったんです」
辻田さんはこのとき77歳。日本人男性の平均健康寿命(自力で歩けてひとりで普通の生活ができる状態)は71歳と言われていますから、77歳でテニスができていること自体、すごいこと。しかもシニアで日本一だなんて驚異的な辻田さんではありますが、いきなりの不調にさすがにこれは変だなと思ったそうです。そして近所の病院を訪ねたのが平成25年6月のことでした。血液検査をしてもらったところ、「先生は、検査結果の数値を見ながら、うーん、かんばしくないですねー、と厳しい表情で話し始めたんです。なにか異変があったんだと覚悟しました。不治の病といわれている膠原病を患った経緯がありますから、再発したかと思いましたね。このとき先生から言われたのが、赤血球と白血球の割合を示すヘマトクリットの数値が異常に低いと」
ヘマトクリットというのは、血球が血液の中で示す容積の割合で、通常の成人男子で38.5〜48.9%という数値が正常範囲内ですが、辻田さんは、たったの26.9%しかありませんでした。「先生に、骨髄異形成症候群の疑いがあるから、早急に大きな病院で診てもったほうがいいです、と言われました」
骨髄異形成症候群とは、難病情報センターの資料によると、“赤血球、白血球、血小板といった血液細胞(血球)は骨髄の中で造血幹細胞といわれる細胞より作られます。血球の寿命は短い為、骨髄の中では生涯にわたり大量の血球が作り続けられていますが、何らかの理由で十分に血球が作られなくなると、血球減少が起ります。骨髄異形成症候群というのは、造血幹細胞に異常が生じ、十分な量の血球を作ることができなくなり、その結果血球減少を起こす病気です。骨髄異形成症候群の患者さんは経過中に急性骨髄性白血病になる危険性が高いことも知られています。症状としては、貧血症状、息切れ、動悸、全身倦怠感、脱力感、などが見られます。高度の白血球減少がおこれば、細菌やかびなどの病原体に対する抵抗力が低下し、肺炎、腸炎、さらには敗血症といった感染症を起こします。血小板が少なくなるとささいなことで出血しやすくなり、軽度の打撲で大きなあざをつくる、歯磨き後の歯肉出血が止まりにくい、鼻出血を繰り返す、といった症状が見られます。外傷や感染症を契機として頭の中や胃腸などに重大な出血を起こすこともあります”
簡単に言うと、いわゆる血液のがんの一種だそうです。赤血球も白血球の数値も平均値の半分くらいとかなり低く、また、立ちくらみや疲労感などの自覚症状が出たのもこうゆうことからでした。
葬式の準備をしておいたほうがいいと言われ目の前がまっくら
血液検査から20日後、7月10日、辻田さんは日本でも屈指の著名な大学病院で骨髄の検査をしました。その結果は、やはり骨髄異形成症候群でした。このままでは1年後には急性白血病になる可能性が高いと言われました。
急性白血病という血液のがんの治療法は、西洋医学では骨髄移植しかないと言われています。そして、それは65歳以下しか適応できないそうです。「もし移植できたとしても、その後、ぞっと免疫抑制剤と投与しなければならないのは知っていました。できたとしてもリスクが大きすぎますよね。免疫抑制剤は免疫が落ちるわけだから、かぜやインフルエンザでも死に直結してしまう。かといって他の治療法は、造血効果のある薬(免疫抑制剤やステロイドと同様、嘔吐や食欲減少などの副作用があるとか)を飲むか、輸血を定期的に行うしかないそうで、もう、ここまできたら、どっちにしてもダメかもしれなと思いました」
異変を感じてからに数ヶ月。64`あった辻田さんの体重は51`にまで減っていました。味が分からなくなり、食欲も落ちたそうです。その変貌は、周囲の目にも明らかで、辻田さんを良く知る人は、あの頃は顔色も悪く、いつものパワーあふれる辻田さんじゃなかった、重い病気かなと思ったそうです。本人もかなりのショックだったはずです。そんな危機の中で辻田さんは「僕も治療師の端くれですから、化学薬品を使った治療法はやりたくなかったから輸血などは拒否しました。しかし、このときの僕のヘモグロビン数値(血色素数)は7.1しかなかったんです。平均は13〜16で、7以下では立っていられないらしいです。もう限界でした。そんなときにやはり頼りたかったのは信頼している丹羽先生でした」
7月12日に大学病院で検査の結果を聞き、26日に大宮の診療所に丹羽先生を訪ねました。「大学病院の検査データを持って行ったんです。そうしたら、そのデータを見た丹羽先生は、あんた、これはもう急性白血病ですよ。最悪の場合、余命は3か月くらい。お葬式の準備をしておいたほうがいいかもしれんと言われ、これにはショックでしたね。目の前が真っ暗とはこのことでした」
丹羽先生は、どんな患者さんにも変に期待を持たせたりはしません。その代わり、可能性がある場合は、暖かい声で大丈夫、と励ましてくれます。普通の病院の先生なら可能性はやってみないとわかりませんとか、パーセンテージでしか言ってくれません。だからこそ辻田さんにとっては厳しい現実だったはずです。しかし、先生は最後に「うちの病院にくるか?苦しまずに少しは長く生きれるようにしてやから。と言ってくれたんです。そりゃ嬉しかったです。どうせダメなら、少しでも長く、少しでも元気な状態でいたいと誰でも思うじゃないですか」
1か月の入院で数値回復!余命3か月が、100歳まで生きる
早ければ早いほどいい、迷う余地はありませんでした。辻田さんはその場で土佐清水病院行きを決め、1週間後には高知空港に降り立っていました。「大宮の診療所行ったその日から丹羽先生特製の薬を出してもらい、SODといっしょに5種類くらい飲み始めていました。HTT、タブ、SOD、Cなどでした」
今、土佐清水病院は病院内に入院設備がなくなり、通院という形をとって診療しています。病院近くのほとんどの民宿と提携し、食事も病院の指示に従ってた病院食えお出してくれるそうです。「おせじにもきれいな民宿ではなかったけど、患者さんで満室なんです。ほかの民宿も同様らしく、丹羽先生を頼ってくる人は多いんだな、改めてすごい先生だと思いました」
すごい先生、という想いがさらに増すことになったのは、入院して最初の血液検査の結果でした。「信じられないことですが、すべての数値が増えていたんですよ。その結果を見て先生も、いいぞ、良くなっているぞ。これはいけるかもしてないと言ってくれたんです。ほんとうに嬉しかったですね。入院までの一週間に飲んでいた薬が効いたんですね」
辻田さんは土佐清水に約1か月滞在しました。その間に行った治療でいちばん体がよろこんでいるのが分かる治療が、マグニー石でできたサンドバスだったそうです。「入院中は毎日入っていました。初めて入ったときは、5分も入っていられなかった。体中がドクドクして耐えられなかったんです。それが、日ごとに長くいられるようになって、最終的には15分くらい入れるようになった。これは本当によかったですよ。血が全身を巡っているのが分かるんです。」
同時に、味覚異常も少しずつ回復し、今度は逆に、食事がおいしくておいしくて、体重も1日に1`ずつ増え、元に戻ったそうです。もちろん立ちくらみもめまいもなくなり、後半は、病院から民宿まで徒歩で1時間近くかかる距離を、歩いたり走ったりして帰ってきたとか。さすがにアスリートです。「いや、海がきれいで、食べ物もおいしくて、途中から入院じゃなく、旅行に来ている気分でした。入院友達もでき、戦友みたいですね」と大笑い。「2回目の血液検査でも順調に数値が増え、先生も、あんたいいぞ!もしかしたら100歳くらいまで生きるかもしれんぞ、と言ってくれて、嬉しかったですね」
そうして辻田さんは、全快に近い状態で東京に戻ってきました。「大学病院で検査をしたところ、その数値に(表1参照)ものすごく驚かれました。この病院でこれだけ回復した人は初めて見ました、何をしたんですか?と。でも、西洋医学しか勉強していない人には丹羽先生のことを説明しても分かってもらえないから、生薬を使った療法で治したとだけ言いましたね」
丹羽療法を始めるのが1か月遅かったら終わりだった
辻田さんが病魔に侵されたのはどうしてだったか、その原因ははっきりと特定はできません。しかし、ひとつ言えるのは、辻田さんは普通の歳を重ねてきた人ではなく、アスリートだったということです。しかも、ほぼ毎日、炎天下のテニスコートを駆け巡っていたのです。それは、同時に大量の紫外線を浴びることでした。紫外線と過度の運動で発する活性酸素の量のことを考えると、恐ろしくなります。加えて、全日本シニアチャンピオンとしてのプレッシャーやストレスも半端じゃなかったと思います。
実際、辻田さんのテニスの僚友がふたりも同じ病にかかっていたとか。残念ながらおふたりは、辻田さんが退院した頃に相次いで亡くなられたそうです。「あのとき、もう一か月、丹羽先生のところに行くのが遅れていたら、僕は、今、ここにいませんでしたね。終わりでした。先生の先見の明、豊富な治療実績、そして寝ずに開発された生薬など、すべてのおかげです」
しみじみと言います。今は同じ病の友人に丹羽先生を紹介しているとか。一人でも多くの人が自分のように生還できればと願ってます。「今も数か月に一度、大宮の診療所に行っているのですが、診療は10秒で終わりです。ええ、薬はSODといっしょに今も飲み続けています。最近すごいのは、真っ白だった髪の根っこが黒くなってきたんですよ」
確かに、髪の根のあたりが黒いのです。白髪染めをしている人の根っこは全く逆で根っこが白く、徐々に黒くなるものです。こんな逆現象を目の当たりにしたのは初めてでした。また、テニスにも復帰し、最近は、動悸も息切れもなく、体が動いてしまうから、つい無理をしてしまうと笑っています。「でも、紫外線が強い夏場だけは控えようかなと思っています。 |