ホームSODロイヤル愛用者の声 > 母子2代に渡って、余命1年半の命を丹羽先生に救われた!
 

 ピックアップ 033


 母子2代に渡って
 余命1年半の命を丹羽先生に救われた!
  佐藤美和子さん (47歳) 女性

 
  
今回のインタビューは丹羽先生の喜寿のお祝いでもお話をしてくださった、佐藤美和子さん。
   丹羽先生との出会いは古く、15年余前にさかのぼります。お母様が子宮がんで丹羽療法を受けられ一命をとりとめたのです。
   その5年後、今度は娘の美和子さんが、卵巣がんという診断。それも出産で判明し、卵巣切除の際に袋が破れてがん細胞が散るという最悪の事態になりました。
   余命1年半。当時まだ30代。ようやく娘をさずかったばかり、がん家系という運命、事実を受け止めることは想像を絶する苦悩だったことと思います。
 

 
   母の子宮がんから6年、今度は自分が卵巣がん
 
―――お母様に悪性腫瘍がみつかったとき、どうして丹羽療法を受けようと?
「今から15、6年前、世の中で抗がん剤治療が効かないというニュースが話題になっていたことがあるんです。(当時、近藤誠医師が書いた『患者よがんと闘うな』という本がベストセラーになり、抗がん剤ではがんは治らないということが話題になりました)そんなときに母のがんが分かりました。私が代表で主治医に聞きに行きました。主治医からは抗がん剤治療を勧められたのですが、私と兄が反対したんです。特に兄は健康に関する事にとても関心を持っていて、その兄の家の浄水器を取り付けた会社の方が、抗がん剤治療がいやなら土佐清水病院の丹羽先生に診てもらったらどうかと教えてくださったんです。いろいろ調べてここしかないんじゃないかと」
 
―――それで土佐清水に入院されたんですか?
「半信半疑の母を連れて土佐清水まで行ったのですが、結局、入院はしなかったんです。丹羽先生に診ていただいたら、通院で大丈夫だと。そのときに初めて、新横浜に診療所があることを知った次第なんですよ」
 
―――それでお母様は今は?
「あれから4年間、先生の調合して下さる生薬とSODを毎日欠かさず飲んで、食事療法もしっかりと守って、無事がんから卒業しました。今、72歳ですがピンピンしております(笑)。あのとき、がんであることを告知するかしないかで兄弟ですごく悩み、もしも自分がそうなったらどうするかも主人と話し合ったものです。まさかその5年後に、今度は自分がその立場になるなんて」
 
―――お母様が完治された1年後、美和子さんの妊娠がキッカケだったとか
「もともと双角子宮(子宮の内膣がふたつに分かれている状態)で妊娠が難しいと言われていて妊娠したんです。ですから出産は帝王切開だったんですが、そのときに右の卵巣が腫れているからいっしょに除去していただいたんです。先生も良性の腫瘍だと思って除去したのですが、検査の結果、悪性だということが分かり、しかも、手術の際に卵巣が破けて散ってしまったんです」
 
―――悪性の腫瘍というのは主治医から?
「いえ、主人が教えてくれました。出産して10日後、ようやく娘と家に帰れるという日に、主人が主治医に呼ばれました。検査の結果が出るのが遅いなとは思っていたんですが、まさかと。卵巣をひとつ摘出したことは女性としてショックでした。しかし、主治医から良性であると思うと言われていたこともあり、私の中ではそのことは終わっていました。それが、悪性だったと硬い表情をした主人から聞かされ、奈落の底に突き落とされたような気持ちでした。そんななか浮かんだのはやはり丹羽先生でした。あのとき母を救って下さった先生の姿が浮かび、主治医が大学病院に紹介状を書いて下さるとおっしゃったのですが、お願いしたいお医者さんがいるので、もう一通、書いて下さいとお願いしました」
 
―――書いてくれましたか?
「はい。先生の紹介する大学病院用と2通。その一通は使わないから封を開けて見ました。そうしたらとても細かく丁寧に書いて下さっていて、普通なら感謝しなければいけないのですが、その時の私は、ほとんど記憶がないんです。毎日が真っ暗なトンネルの中を歩いているような感覚でした。ただ、はっきり覚えているのは、平成11年の9月4日に産科を退院して、9日に丹羽先生が新横浜で診察されるということで、なんとかしてその日に診ていただこうと電話をしたんです。そうしたらもう予約がいっぱいで無理だと言われました。でも、どんなに遅い時間になってもいいからなんとかお願いしますと。電話にすがりつくように泣いてお願いしていました。そうしたら、秘書の方が分かりましたとおっしゃってくださって、9日に診ていただく事ができたんです」
 

 
  
たったワンクールの抗がん剤、それでも歩けなくなる恐さ
 
―――診察の結果はどうでした?
「先生は母のことを覚えていてくださって、お母さんのほうが重症だったんだよ。俺が助けてやるとおっしゃってくれたんです。最初は」
 
―――というと?
「丹羽先生は、私を診てくださりながら、細かく書かれた紹介状をご覧になりそうかぁ・・・破れたか・・・ん、あれは医療事故ではないんだなぁ≠ニ言われ俺の兄貴が産婦人科をやっているから、兄貴に相談して後日、電話をするから≠ニおっしゃたのです。そして先生の指示で生薬とSODを飲み始めました。後日、先生から直接電話をいただいて、余命1年半だといわれました。深刻な感じではなく、柔らかい口調で優しく言われました。そのとき、私は、とっさに、産んだばかりの子供を残しては死ねません!と叫んでいました。そうしたら先生が、土佐清水に赤ちゃんも連れて来いと言ってくれました。結局、子供は私の両親が見てくれるということで、夫といっしょに土佐清水に行きました。6年ぶりの土佐清水でした。まさか、二度も訪れるとは思ってもいませんでしたね」
 
―――入院してどのような治療を?
「先生は抗がん剤はほとんど使わない治療をされているんですが、私の場合はがんが散っている状態でしたから、まずはワンクールだけ抗がん剤を使おうと。ところが、私は生まれつき腎臓がひとつしかないんです。ですから抗がん剤の副作用に腎臓が耐えられるか先生方はものすごく慎重に計画を立ててくださいました。そんな腎臓検査を経てワンクールだけ抗がん剤を打ったんです。治療の前には吐き気止めの薬も服用しました。もちろん、先生の調合された生薬とSODは初診直後からずっと飲んでいました。おかげで抗がん剤の副作用はまったくなく、逆に食欲が出たくらいでしたね。ワンクールですから髪が抜けるまではいかなくて、でも、散歩をしようとしたら思うように歩けないんです。たったのワンクールなのに、どれだけ抗がん剤が身体に負担をかけるのかが分かりました」
 
―――とても順調に回復されていったんですね
「ところがそうでもなかったんです。というのは、入院して1ヵ月くらいしてからものすごい腹痛に襲われたんです。CTを撮って調べるとお腹の子宮あたりに黒い塊のようなものがあると。しかしそれが何なのか分からずにいたんです。そんなとき、丹羽先生のお兄様が月に一度、土佐清水まで婦人科の回診に来られ、診ていただいたんです。そうしたら、出産後2週間くらいで生理の生理のようにして出る悪露が、私の場合、双角子宮のため体内から出にくくて、抗がん剤で腐敗していたことが分かったんです。そしてお兄様がそれを掻き出してくれて事なきを得たんです。新横浜の診察予約といい、お兄様のことといい、幸運なことがいくつも重なって救われたんだと思います」
 

 
  
丹羽先生の慈しみの深さと生きていられる幸せ
 
―――でも、腹痛などがあると、またがんが悪くなっているんじゃないかと不安になりませんでした?
「それはもう不安でいっぱいでした。病院の窓から、近所の小学生の子供さんがランドセルを背負って通り過ぎる姿を見ては、自分の子供のランドセル姿を見ることができるのだろうかと。でも、救われたのは、土佐清水病院にはカウンセリング専門の先生がいらっしゃるんです。その先生が私の不安をいつも吸い取ってくださって、本当に救われました。入院したときも、最初、赤ちゃん連れでということだったせいか、二人用の部屋が用意されていたんですよ。こんなところにも丹羽先生の心配りが行き届いていて、心の温かい素晴らしい先生ですよね」
 
―――退院されたのは?
「2ヶ月と6日後に」
 
―――そのあとは?
「月に一度、新横浜に通っていました。それが2ヶ月に一度になり、今は半年に一度でよくなりました」
 
―――10年かけてここまできたんですね。
「いまでも食事には気をつけています。肉乳製品は摂らないようにしているし、油ものもひかえています。それでも精神的にストレスがかかるとこれまでに4、5度、腫瘍マーカーが上がったりしたので、油断はいけないと。実は、主人の仕事がなくなったときに一度上がったんです。円形脱毛症も発症しました。そうしたら先生が土佐清水病院で仕事ができるように計らってくださったんです。結局、仕事がこちらで見つかり、土佐清水病院にお世話になることはなくなったんですが、このときも先生の慈悲深い優しさに触れ、本当にありがたかったです。現在、腫瘍マーカーは正常で経過しています。丹羽先生ほど暖かいお医者さんはいませんよね。口調は乱暴なところもありますが(笑)お心は誰よりもお優しい」
 
―――
確かに。今、お嬢さんは小学生ですよね。
「4年生になりました。娘はアトピーと喘息があるので、やはり丹羽先生にお世話になりました。親子3代ですね。娘が小学生になるというとき、その肩にランドセルを背負った姿を見て、涙が出ました。私は本当に恵まれているなと。それでも、10年もたつと、このありがたさを忘れがちになるんです。人間って勝手ですよね。以前は、電車に乗っても、おばあちゃんにばかり目がいっていたんです。こんなに年齢を重ねられて羨ましいって。なのに最近は若い人を見て、お化粧がきれいだなとかおもっちうんですよね。生きていられるだけで幸せだったのに。でも、こうやってお話をしていると初心に戻れます。これまで娘のことや金銭的に親にお世話になってきたので、これからは恩返しをしたいと思います。そして、丹羽先生にも、社会にも恩返しがしたいですね」
 

 
   生きていられるだけで幸せ、そんな10年を過ごしてきた美和子さん。お化粧などに気を使ったことがないとおっしゃるその素顔は、30代にしかみえないくらい若々しくチャーミングでした。余計なものを取り払った、素の美しさをお持ちでした。
   そんな美和子さんがこうしてお話してくださることで、今もがんの治療で悩まれたり迷われている患者さんたいの希望と勇気になるはずです。立派に丹羽先生と社会に恩返しをされていると思います。

 


129