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 Book 018


『サイレント・ブレス』
〜終末医療の在り方が見える〜

南 杏子 医師 著

 

 
   今回紹介する本は、これまで紹介してきた、医師や学者の方々が医療現場の真実や西洋医療の盲点などを指摘するノンフィクションではありません。一応フィクションで医療小説という形態です。しかし、著者は、終末医療病院に勤務する現役の女性医師。つまり、これは事実に限りなく近い物語だと言えます。
   ここには、年齢も性別も症状も違う終末期を迎えた6人の患者さんと、それを看取る医師の物語があります。フィクションととるか、ノンフィクションととるかは読み手の自由です。団塊の世代がシニアになった今、国民4人に1人がシニアという現実を前に、終末をどのように迎えるか、迎えたいか、そこに医療はどこまで必要か、誰もが真剣に考えなければならない問題が山積みです。そんななか、この本を読んでいくと、そこにひとつの答えらしきものが見えてきます。
   主人公の37歳の女性医師は、大学病院から訪問クリニックへと左遷されます。そこで死を待つだけの患者と向き合うことの無力感に苛まれます。しかし、人生最後の日々を穏やかに送る手助けをする医療の大切さに気付きます。ここでは、彼女と、その師である先輩医師との会話や、患者との会話をいくつか紹介します。そこから垣間見える医師の葛藤こそが、終末医療の在り方かもしれません。
 
   死ぬための医療ではなく人生の最後を生きるための医療
 
   最初は、乳がん患者、45歳の話です。
   末期の乳がんで大学病院に入院していたが、自らの意思で退院し、自宅で訪問医療を受けることを選んだ女性が、
   「大学病院では新しい抗がん剤の治験も勧められたけど、断ったわ。実験動物になるなんてまっぴら」
   といい、主人公の医師が、
   「新薬を試すチャンスをあきらめたんですか?」
   「無責任なこと言わないで。本当に効くかどうかわからないのに、副作用の苦しみに耐えなきゃならないのは私なんだから。あきらめないほうが絶対いいって、あなた、保証できるの?」
   何も言い返せなかった主人公。大学病院では、たとえ可能性が低くても、万にひとつに望みを賭けたいという患者ばかりだった。いつの間にか新しい薬を試すことは当然のように思っていた。大学病院で苦しみながら亡くなった患者たちの顔が思い出された。これまでは、医師が新しい治療に挑戦してきた、と思っていた。だが、挑戦していたのは、実は患者の方だったのかもしれない。
   「これまで私が正しいと考えていた医療が、本当に正しかったのかどうか・・・、患者さんと話をしているとわからなくなる時があります。死を目前にした患者さんに、つまり治療法のない患者さんに、医師は何ができるのでしょう」
   先輩医師に相談すると、
   「医学教育が教えてきたのは、治る患者を治す方法、平和な治療ばかりだ。治らない患者の治療法はないからね。戸惑うのも無理ないよ。でもね、治らない患者から目をそらしてはいけない。人間は、いつか必ず亡くなるのだから」
   患者は「死ぬため」に戻ったといったが、彼女は人生の最後を「生きるため」に戻ったのだと思ったのです。
 
   患者は医師の安心のために入院するわけではない
 
   続いては、筋ジストロフィーの22歳男性です。
   筋ジストロフィーという疾患は、この本によると、徐々に筋肉が衰えていく病気で、根本的な治療法はなく、最終的には呼吸する筋肉の力までも弱くなる。かつては20歳前後で死に至るとされた難病だとか。
   この患者さんは、4歳で発病し、17歳で歩けなくなり、20歳から人工呼吸器を装着しているという設定。
   そのなかでの医師と先輩医師との会話に、
   「入院を勧めたのですが、本人にも母親にも強硬に拒否されまして。入院したほうが安心だったのですが」
   「患者は医者の安心のために入院するわけじゃないよ」
   というくだりがありました。
   この話は、様々な事情がからんでの在宅診療希望なのですが、安心のため、つまり医師の側からの論理が常に先に立つものではない、ということに気づかされた話でした。
 
   老化は治せない、死というゴールに向かう医療
 
   そして、これから最も増えゆく老衰性の衰弱患者、84歳女性の話です。
   体に特に異常所見は認められないけれど、日常生活の活動性が著しく落ち、食事量も乏しい、処方薬なし、という診断が下された、歩行も困難な患者さんです。
   家族は、リハビリや食事などを勧めるが、患者はリハビリがいちばん嫌なことだという。
   「死ぬほどいや。もうたくさん」
   家族は、
   「リハビリしなきゃ動けなくなる。動けなくなったらおしまいよ」
   「食べたくない。もういつお迎えが来てもいいの。動けないのに生きていたくないの」
   「食べないから元気になれないのよ」
   というやりとりの繰り返し。
   訪問介護の医師になって1年たつ主人公は、この1年在宅で暮らす高齢者を診ているうちに自分の考えの変化に気づくのです。
   リハビリは無理せず、関節が硬くなるのを防ぐ程度でいい。筋力が弱っているのだから、立ったり座ったり、という作業はものすごく疲れる作業。食欲が落ちるのも、これまでなら、消化器の検査や、栄養を取るための胃瘻などの治療を考えた。が、今は、食べなくなるのも自然の経過だととらえることができた。
   先輩医師も、
   「老化は治せない。終末医療では、医療者側も家族も逆算の思考でいかないと。死というゴールから逆算して、残された時間をどうするかをみんなで考えてあげなさい。肉親が死ぬという事実を受けとめられない家族は少なくない。だからこそ、医師がひるまずに現状を伝える必要がある。ゴールがわかれば、そこから最期をどう生きたいか、という話を始められる」
   終末医療は、家族の理解に大きく左右されるというのです。何が何でも死なせたくないと家族が言えば、やれ胃瘻だ人工呼吸器だと処置をし、患者さんはチューブだらけになって行き続けます。しかもチューブを自分の手でははずさないよう、手足は固定される。このお話は、そんな状態が果たして幸せな終末なのかどうか問いかけています。
 
   医者にとって死は敗北じゃない、安らかに看取れない医療こそ敗北だ!
 
   終盤は、末期のすい臓がん患者、72歳男性の話です。
   彼は、消化器がん手術を含む治療の第一人者で、がんに対する積極的な治療を主唱する著名な医学博士という設定です。『あきらめないがん治療』『がん治療、手遅れなんて言わせない』など多数の著書で名をはせる大学教授が、終末医療を受けるために自宅に戻った。しかも、主人公の医師が担当することになった。彼女にとって雲の上の存在だった人を自分が診る、この話はそこから始まります。
   患者である彼は、申し送りによると、完全に治療拒否。点滴をしながらゆっくり死を迎える。ということでした。
   それに対して、彼女は、せめて緩和治療でもと勧めるが、患者は、頑として意味のない延命治療はいらない、の一点張り。そのことを先輩医師に相談すると、
   「治療を受けないで死ぬのはいけないことかな。医師には二種類いる。死ぬ患者に関心ある医師と、そうでない医師。医師にとって死ぬ患者は負けだ。だから嫌なもんだよ。よく考えてごらん。人は必ず死ぬ。今の僕らには、負けを負けと思わない医師が必要なんだよ。死ぬ患者も、愛してあげてよ。治すことしか考えていない医師は、治らないと知った瞬間、その患者に関心を失う。だけど、患者を放り出すわけにもいかないから、ずるずると中途半端な治療を続けて、結局、病院のベッドで苦しめるばかりになる。これって、患者にとっても家族にとっても本当に不幸なことだよね。死は負けじゃない。安らかに看取れないことこそ僕たちの敗北だからね」
   と言われるのです。
   患者である彼は最後に、20年以上にわたって生存しているスーパー長期生存者の元患者たちを訪ねて、自分が手術をした患者たちが健康な生活を送っているのをその目でたしかめることに残された命を燃やした。その教授がこういいました。
   「医療にはおのずと限界があるが、多くの医師は闘いをやめることを敗北と勘違いしている。ところが、闘うだけではいずれ立ちいかなくなる瞬間がくる。そのときに求められるは別の医療だ。死ぬまでの残された時間、ゆったりと寄り添うような治療がいかに大切かを私は身をもって知った」
   著者は冒頭に、このようなメッセージを記しています。
   「サイレント・ブレス 静けさに満ちた日常の中で、穏やかな終末期を迎えることをイメージする言葉です。多くの方の死を見届けてきた私は、患者や家族に寄り添う医療とは何か、自分が受けたい医療とはどんなものかを考え続けてきました。人生の最終章を大切にするための医療は、ひとりひとりのサイレント・ブレスを守る医療だと思うのです」
   西洋医学が進歩し続ける中、初めて迎える高齢化社会。私たちは、自身がどのような終末を望むのか、肉親にどのような終末を望むのか、肉親にどのような終末を迎えてほしいのか、真剣に考えなければなりません。今や、病院や医者任せの時代ではなくなっているのかもしれない、そんなことを教えてくれる一冊です。
 

 


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