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『人間の死に方』 〜医者だった父の、多くを望まない最期〜
久坂部 羊 医師 著

 

 
   医師であり作家として多くの医療小説を発表している久坂部羊先生の作品を紹介します。これは、やはり医者だった著者の実父の最期の様子をつづったエッセイです。その内容は、決して深刻なものでなく、むしろ、帯に「どうか父の死を笑ってください、あきれてください」と書かれているように、クスッと笑ってします場面や言葉がちりばめられ、読み終わったあと、こんな最期なら悪くない、むしろこうありたい、両親にはそうしてあげたい、と思える一冊です。また、医師ならではの視点から医療、とくに終末医療に痛烈なメスを入れている部分も多く、現代医療の危険性も分かる興味深い内容です。
   「私は医師として、これまで多くの死を見てきたが、それはいわば職業上の経験で、必ずしも心の奥まで関わったものではなかった。ほんとうに自分に引き寄せた人間の死に方≠ヘ、やはり身内のそれから学ぶ以外ないのではないか。父の死に方は、ひとことで言えばオモロイ死≠セった」
   というまえがきから始まるお父様の死の話は、お父様の人となりを紹介することでオモシロイ≠ゥら破天荒∞あっぱれ≠ヨと変わっていくのです。というのも、お父様は麻酔科の医者だったのですが、医者のくせに根っからの医療否定主義者でした。
   「医療というのは、病気という自然≠人間の力で支配しようという越権行為≠セから、おのずと限界があると、父は考えていたようだ。だから、最先端の医療でも常に疑いの目で見ていたし、医学的に正しいと言われることより、自分の身体の感覚のほうを信じていた。父からすれば、現代人の多くは、安心を求めすぎて不安を増やし、長生きを求めて命を縮め、先のことを考えすぎて、無駄な心配で今≠浪費しているように見えていたのだろう」
   こんな考え方のお父様だったから、85歳で前立腺がんの診断を受けたときには「しめた!これで長生きせんですむ」と喜び、治療も検査もいっさい拒否したそうです。また、若い頃に糖尿病と診断され、しばらく食事療法をしたものの効果がないので半年くらいでやめ、以後まったく治療をしなかったとか。血糖値も検査さえしなければ気にならない、という独自の理論でほったらかしにしていたとか。さすがに後年はインスリンの自己注射を始めたけど、まんじゅうやケーキは食べ放題。コーヒーには砂糖を3杯入れ、タバコも一日20本という不摂生ぶりを発揮していたそうです。
   著者はこのことで医者のいう治療をしなくても好き放題していても大丈夫だと誤解されても困るとは言います。なぜなら、お父様が医学の常識を無視して自由奔放に生きたのは、そのために早死にしたり、病気が悪くなってもかまわない、あきらめるという強い覚悟があったからだと。
   ただ、先に現代人の多くは、安心を求めすぎて不安を増やし、長生きを求めて命を縮め、先のことを考えすぎて、無駄な心配で今≠浪費している≠ニいうように、現代医療が検査や治療をしすぎることの弊害も感じてりるようで、「私はもともと外科医だったが、ここ数十年は小説を書きながら、デイケアや在宅医療など高齢者の医療に携わってきた。老化という不治の病≠ニ向き合いながら、いつかは必ず訪れる死を、どうすればより望ましい形で迎えられるか、そのことに常々頭を悩ませてきた。医療の現場では、死に対して無力というのが常識だが、この当たり前のことだが、世間には十分伝わっていない。たいていの人が死を拒み、医学は死に対して何かしてくれると期待している。その状況でほんとうのことを言うと、大変な失望を招きかねない。若い医者は医療の可能性を信じ、最後までベストを尽くすべきだと思うかもしれないが、ある程度の年月、医者をやっていると、おのずと医療の限界も見えてくるし、ときには治療が有害であることも悟る。それらを明らかにすることは、自己否定にもすながるので医者はなかなか口を開かない」
   という話や、子供のころ、麻酔科医だったお父様が仕事から帰ってきて、よく不機嫌そうに奥様(著者のお母さん)に「また外科の連中が、むちゃくちゃな手術で患者を死なせよった」「今日も外科医がいらんことをして、患者を苦しめとる」
    と話しているのを聞いたそうです。著者がどういうことか聞くと、「手術はやりすぎると患者の命を危険にさらすのに、外科医は病気を治すことに夢中になりすぎる。ことにがんの手術では、がんは取れたが患者は死んだというようなことが少なくない」
   と言っていたそうです。著者はそういうことを子供ながらに聞かされていたので、医療は万能ではない、良くない面もあるということを感じながら育ちました。
 
   お父様が検査で糖尿病を指摘されたのは30代のとき。薬を飲むほどではなかったけれど、厳重な食事療法を言い渡されたのです。そのときは一家の大黒柱が倒れるわけにはいかないと、真面目に食事療法に取り組んだそうです。食いしん坊のお父様にとって食事療法は拷問のように大変。ところが一向に血糖値が下がらない。「これは食べたいものが食べられないストレスが原因だと考えたのです」
   そうして食事療法を半年でやめたお父様は、もとの食生活、好きなものを食べ、タバコを喫う生活に戻ったのです。「ストレスが良くないと信じている父は、心配するのも良くないと考え、血糖値を測らないという奇策に出た。検査さえしなければ血糖値が気になるということもないわけだ」
   普通では考えられないけれど、お父様はその後30年以上、糖尿病の検査をしないで過ごしたそうです。「それで87歳まで生きたのだから、現実は皮肉なものだ。父の麻酔科医の仲間には、健康が何より大事な人や、仲間より早く死んだほうが負けだと言って頑張っていた人もいたが、いずれも父より先に亡くなった」
   85歳の時に前立腺がんが発覚したときの、担当医とお父様とのやりとりは秀逸です。(以下本文より)
「どうやら前立腺に問題があるようです。それもただの前立腺肥大ではなく、可能性としては、最悪の場合、がんも考えられるのです」
   医者はショックを与えないよう、婉曲な言い回しをしてくれたようだ。ところが、父は表情を輝かせて言った。
「前立腺がんですか。ほう!それなら長生きせんですみますな」
   医者は冗談だと思ったのか、誤解を解くように、
「いやいや、まだあきらめる必要はありません。腫瘍マーカーが高いだけですから。正式な診断は、生検で細胞を診てからということになります」
   父は満面の笑みで答えた。
「いえ、けっこうです。私はもう85歳ですから、このまま何もせんでいいです」
   医者もここにきて父が本気で治療を拒んでいると気づいたようだ。
「お年を心配っされているのですか?大丈夫ですよ。今は90歳でも安全な手術がありますから」
「いやいや、私はこの歳まで生きて、もう十分長生きさせてもろたから、これ以上はいいんです」
「いや、その考えは古いですよ。今は医学が進歩して、平均寿命も延びているんです。85歳だからもういいといのは、今の常識ではありえません」
「いや、これは私の人生観ですから、今の常識とは関係なく、検査も治療も受けたくないんです」
「それは命を軽んじる発想じゃないですか。治療が可能な病気は、きっちり検査して治療すべきです」
「それはアンタの考えでしょう。ボクの考えとは違う。医者の考えを患者におしつけるのは感心しませんな。手術で痛い目におうたり、抗がん剤の副作用で苦しむより、このまま人生をまっとうしたいんです」
「内視鏡の手術はそれほど痛みませんし、抗がん剤の副作用を抑える薬もあります。昔のイメージで怖がっているのでは?」
「怖いわけやない。もう治療はいらんと言うてるんです」
「しかし、このままにしておくと、前立腺がんはよく骨に転移しますよ。骨転移は痛いですよ」
「アンタはボクを脅す気か」
「脅しているのじゃありません。事実を言っているのです」
「それでも患者がいらんと言っているのだから、いいでしょう」
「それは患者のわがままです」
「アンタのほうこそ医者の横暴や。そもそも・・・」
   患者さんが医者だったからここまで医者に対して言えるけれど、これが普通の人なら、医者にここまでいわれたら押し切られてしまいます。しかも医者であれば最善を尽くさないと、万が一のことを考えないといけない。しかし、その結果、患者に負担を強いる。
   さらに、お父様ががんだからしめた、と思ったその真意は「90歳とか100歳まで生きて、身体が弱ってきているのに、がんなら確実に2、3年で死ねるから、しめたと思うたんや」
   だったそうです。これには高齢者医療の現場にいる久坂部先生も納得でした。
 
   「世間では長生きを良いことのように言う人も多いが、実際の長生きはつらく過酷なものだ。足腰が弱って好きなところにも行けず、視力低下で本も読めず、聴力低下で音楽も聴けず、味覚低下でおいしいものもわからず、それどころかむせて誤飲の危険が高まり、排泄機能も低下し、おしめをつけられ、風呂も入れず、容姿も衰え、何の楽しみもなく、まわりの世話にばかりなる生活が長生き≠フ実態だ。これで認知症にでもなればまだましだが、頭がしっかりしていると、つらい現実が認識され、家族やヘルパーの世話になる心苦しさに耐えなければならない。私が在宅で看ていた95歳の女性が、しみじみこう言った。先生、私は若い頃、毎朝、体操をすると長生きできると聞いて、一生懸命にやりましたが、あれが悪かったのでしょうか、と」
    その点、がんなら死ぬまでに自分の人生を整理しつつ生きることもできる。確実に死ねることで、長生きしすぎて思わぬ苦しみにあう危険から免れることができると久坂部先生も言っています。また、以前、紹介した中村仁一先生の著書『大往生したけりゃ医療とかかわるな』のなかでも同様のことを言っています。
   その後、お父様は前立腺がんの手術をすることなく、治療もホルモン剤だけを飲んでいたそうです。そうして2年後、認知症にもなり、在宅で安らかな最期を迎えたのです。とはいっても、死の原因は前立腺がんでも、糖尿病でもなく、ごく普通に体力が弱り、直接の原因が不明のままゆっくりと亡くなれたとか。
   やりたいことをやりたいように、よけいなことをしないで看取ったことは、ある意味、医師としてはいけないことかもしれないけど、身内だから知りえた貴重な体験なのではないでしょうか。
   著者は最後にこのように問うています。
    「在宅死は、ただずっと死を待つだけだが、病院死はできるだけの医療を受けられる。しかし、それは人間としての尊厳を失わされる危険がある。在宅死は穏やかで尊厳を保ちやすいが、治療をしない分、死が少し早目に訪れる危険性がある。病院死は治療でいくばくか命は伸びるが、注射や検査で痛い目にあい、機械やチューブにつながれて、不自由で意味のない状態を強いられる危険性がある。つらく苦しい悲惨だけの延命なら、ないほうが安らかだろう。長い人生の最後に、数日もしくは数週間の悲惨な時間を付け足して、どれほどの意味があろう。そのわずかな生を放棄することは、決して命を粗末にすることではない。最後まであきらめないというのは、理念としては美しいが、現実には害が多すぎる。人間らしい尊厳を保つためには、ある種の賢明さが必要である」
 

 


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